平桐寺《ひょうどうじ》に帰りつくと、すっかり着替えを終えて化粧を落とした明理に出迎えられた。ひらひらと手を振る彼女に、先程までの厳かな雰囲気はいったい何だったのかと江角は脱力した。
「りーくん、お茶いれて。この間お中元でもらったシャインマスカットも出そう」
明理は春木に甘えるように言った。
「注文が多いよ」
そう言いながらも春木は素直に明理の言うことに従った。
「お茶ってなに? アイスティーもアイスコーヒーも麦茶もあるよ」
「麦茶」
「はいはい、たいちゃんは」
「悪い、オレも麦茶がいい」
春木は手際よく花柄のガラスコップに麦茶を入れ、冷蔵庫に入っていたシャインマスカットを皿に乗せて運んできた。春木の家の麦茶は日によって煮だす人間が異なるため、味も異なる。今日はやや濃いめだった。
冷蔵庫から出されてきたシャインマスカットをつまみながら、明理は「あ、そういえば」と言って白い紙で包まれた箱状のものを江角に手渡した。
「これ、持って帰って、国屋に渡して。さっきの匣」
「……触りたくなんですけど……」
江角の上司を呼び捨てにする明理に呆れながら、江角は自らの気持ちを主張した。
「触れる。この紙越しなら大丈夫だから」
そう言われて江角は渋々箱を受け取ったが、確かに嫌な感じは伝わってこない。例えるならばデパートの包装紙に包まれたギフトのようだった。
「それで、何から訊きたいの?」
シャインマスカットをつまんで口に放り込みながら明理は言う。
どこから訊くべきかと江角は迷ったが、まずは己の手の中にある箱が気になって仕方がない。
「増えるってなんで増えたんですかこれ」
そう訊ねた江角に、明理は自分から言い出したくせに渋面を作った。
「えー……増えるものだからだよ。雨が降るのに理由がいる? そういうもの。一個あればそこからどんどん増える。まあ強いて言うならいろんなところに眷属は増やしたいじゃない?」
強いて言うなら、の後が思った以上に合理的な言葉であり、江角は脱力した。
「あ、姉さん、私からも訊いていい?」
「いいよ」
江角に答えたトーンよりも数段明るい声で明理は答えた。
「あの箱、そもそもなに? たいちゃんに説明してもらったより数段よくないものに見えたから、姉さんの見解を聞きたい。ただの子どもをだますものじゃないよね」
春木の問いに、明理はしばらく真剣に考えていたが、やがて「そうだね」と口を開いた。
「贄《にえ》、って言葉、聞こえてた?」
「一応」
「そう仕向けるためのもの、っていうか……最初は人間の他愛もない願いを叶える善良な神とのやり取りに見えるんだけど、人間の欲は段々エスカレートするものでしょ? 特に子どもなんかは無邪気にほしいものを言ったりね」
「……」
「それで対価に自分を差し出しちゃうの。子どもが大金持ってるわけないし、そもそも神はお金なんかいらないしね」
明理はつまらなさそうに言い、また一粒シャインマスカットを口に入れた。
「他は?」
私の気が向いているうちに訊きたいことは訊いてね、と言う明理に、江角は漠然とこの場にあるシャインマスカットがすべてなくなったら時間切れなのだなと感じた。
「じゃあ、オレからもう一つ。明理さんの伴侶って誰……いや、何もの、って訊く方がいいんですかね? いったい、どんな契りを交わしたんですか」
江角の言葉に明理はにっこりとほほ笑んだ。今まで江角が見た中で一番美しい笑顔だったが、それと同時に背中をゾッとしたものが走っていった。
「泰地くんは鋭いね。でも訊かない方がよかったんじゃないかな」
明日の天気でも話すような口調だったが、恐ろしさは変わらない。優雅に茶をふるまわれていたはずなのに、いつの間にか春木家のダイニングには言いようのないピリリとした緊張感が走っていた。
「でも遅かれ早かれたいちゃんにも気づかれたんじゃない? 私は今、姉さんの口から説明してしまった方がいいと思うけど」
横からのんびりと春木が言う。明理は「そお?」と疑念に満ちた声で答えたが、春木はもう一度「いいと思うよ」と繰り返すだけだった。
「りーくんがそう言うなら、教えてあげようかな」
うふふ、と笑った明理の頬は少女のような薄い桃色をしており、清らかな聖女のようにも、淫乱な娼婦のようにも見えた。姉弟の話が終わるのをじっと待っていた江角は、手持ち無沙汰になって目の前の麦茶を一口飲んだ。そしてその瞬間、明理は口を開いた。
「私が契っているのはね、この土地の神様。生まれたときからずっと」
「生まれたときから?」
江角は口に含んだ麦茶を噴き出さなかった自分を内心で褒めた。契りを結んだ相手がいる以上の爆弾発言である。
「そう、生まれたときにはもう決まってたの。まあ自分でちゃんと理解できたのはもっと後だけどね。でも昔から素敵なのは■■■■■様だけだったし、嬉しかったな」
明理が発した名は聞き取れなかった。おそらくただの人間には聞き取れないようになっているのだろう。
「だから、あのとき……」
――とりかえばやの匣から現れた大蛇に対して〝伴侶より格下〟と言ったのか。
この土地一体を支配する神であれば、どこか遠くを根城にする神よりも強く、この土地に住まうありとあらゆるものより力を持つ。
「明理さん、最後に一つ」
「なに?」
「土地神様が治めている範囲ってどこからどこまでですか?」
江角の問いに明理は「いい質問だね」と教員のような枕詞をつぶやいた。
「旧国名の出雲国の範囲」
「……」
規格外だ、と江角は率直に思った。だが、明理の言葉は続く。
「だから範囲外には行けないし、仕事は範囲内でやるって決まってるの。そういうわけだから国屋には改めて釘さしておいてね。私はあなたたちの仕事には協力できません、って」
よろしく、と言って明理は美しく整えられた指先で、最後のシャインマスカットをつまみ上げ、口腔内に放り込んだ。
「やっぱりだめだったかー」
翌日、丁寧にくるまれた箱を持って出勤した江角は国屋に昨日のことを報告した。そして、明理の言葉を伝えたところこのリアクションである。
「は?」
「いや、今回江角に任せたのは、彼女の助力を得るためだったんだけど……難しかったか」
悪びれもしない国屋の態度に、もともとあまり長くない江角の堪忍袋の緒が切れた。ただでさえ気乗りしない仕事を引き受けていたのに、その仕事をさせた真の目的がこれではあまりに報われない。餌にされたも同然である。
「こんなやり方で協力が得られたら警察は苦労してねえんですよ! 一歩間違ったらオレも春木も死んでたんだからな!」
あまりの江角の剣幕に、事務所内の何人かが言い争う二人を見たが、そのうちの片方が国屋だと気づくと「またやってるよ」と言わんばかりの表情をして目をそらした。
「まあまあそんなに怒るな、若人」
「これが怒らずにいられますか!」
のらりくらりと江角の攻撃をかわす国屋に、だんだんと江角も言い返す元気がなくなってきた。数分やり取りしたのち、はあ、と大きくため息をついて、江角は一旦口をつぐんだ。
その途端、事務所の電話がけたたましく鳴る。
「ほら、電話だよ。出て」
くるり、と事務所内を見回したが、あいにく事務班のメンバーは出払っていた。そうなってしまえば、電話は江角が出るしかない。
「はい、S県警UPIの江角です」
「あ、泰地くんか、今そこに国屋いる?」
「え? ああ、在席ですよ。代わりましょうか」
電話口から聞こえてきたのは明理の声だった。この人、UPIの番号知ってたのか、と思いながら、国屋への取次ぎを打診してみると彼女はあっさり肯定した。
『うん、お願い。なんだか反省してない気がしたから、私が直接言おうかと思って』
うんときつく言うから泰地くんは心配しなくていいよ、と弾むような声で明理は言う。その言葉に江角もついつい口角を上げた。
「わかりました。少々お待ちください」
江角は保留ボタンを押すと国屋を振り返った。
「国屋さんに平桐寺から電話です」
「え? 僕あて?」
「そうです。オレに用があるなら基本はこっちにかかってきますから」
そう言って江角はスマートフォンを軽く爪先で叩いた。
「えーなんだろ、僕心当たりないんだけどなあ」
何をいけしゃあしゃあと言っているのやら、と思いながら江角は国屋に催促した。国屋は渋々電話に出る。
「お電話代わりました、UPIの国屋です」
話し始めた国屋の顔からだんだんと生気が抜けていく。
(だ ま し た な !)
数十秒もしないところで、国屋はじっとりとした視線で江角をにらみ、口パクで恨み言を言ったが、江角はそれを無視した。
(平桐寺からの電話ってのは嘘じゃねえしな)
国屋はしっかりと怒られるべきだ、と江角は思う。明理本人からきっちり言い聞かされればしばらくは懲りるだろう。
(今のうちに飯でも食ってこよう)
江角は足取り軽く、隣の棟にある食堂へと足を向けた。後ろで国屋が(行 く な !)と口パクで訴えているのがちらりと見えたが、江角は親指を天に向かって立てると、UPI事務所への入口のドアをきっちりと閉めた。