――その日は、秋にしては暑く、夏にするにはやや気温の低い日だった。
翌日、午前中。
前日取り決めた通り、現在の汪幽教が拠点としている場所――【中枢】地区の一等地にあった――に志登と松本は訪れていた。〈アンダーライン〉本部からも徒歩で行ける場所にあるそこに志登は意外そうな声を上げた。
「へえ、灯台下暗しってやつかな」
「そう? 監視下におくなら【中枢】地区にあるのが一番じゃない?」
俺もそういう理由で【中枢】地区に留め置かれているんだよ、と思ったが口には出さず松本は言う。だが、内心思ったことがにじんでいたのか、志登が苦い顔をした。
「俺が無神経だった、悪い」
普段は傍若無人ともいえる振る舞いをするくせに、こういうときに限って妙に察しがよい志登に松本は苦笑しながら口を開いた。
「いや、別に怒ってないし、皮肉でもないよ。事実、【中枢】地区には〈ヤシヲ〉の国家としての機能がすべて備わっているし、国の監視下に置くならここなんだよ。逆に【中枢】地区に置けないものの方がヤバイから」
「……【地下街】のことか?」
「うん」
松本は言葉少なに肯定し「そんなことより」と話を変えた。
「問題は今からだよ。どんな歓迎を受けるかわかったもんじゃない」
「多分昨日あいつらが病院に行ったことも伝わってるだろうしなあ」
気が重たいなあ、と言いながら志登と松本は汪幽教が拠点を置いている平屋の建物へと足を踏み入れた。
お待ちしておりました、と言われて通された応接室は、消しきれない黴臭さこそあるものの、きちんと手入れされており、ちりひとつ落ちていなかった。歴史が降り積もった重厚な雰囲気に、志登は妙な落ち着かなさを感じた。二人の目の前に出されたコーヒーはよい香りがしていたが、どうにも飲む気になれず、志登は松本を盗み見る。
いつもと同じように背筋を伸ばして応接室のソファに腰かけている松本の横顔からは、何の感情も読み取れなかった。
「どうかした?」
「いや」
できれば俺と同じように緊張していてほしかった、とは言えず、志登はゆっくり視線を正面に戻した。おそらく志登と松本ではくぐってきた修羅場の数が違う。なるようになれ、と志登は腹をくくった。
「お待たせしました」
すらりと背の高い男性が二人連れ立って応接室に入ってきた。二人の見た目は瓜二つであり、生真面目そうではあったが、その奥に強い意思があるのが感じられた。
二十歳になるかならないか、といった年齢だと聞いていたが、雰囲気は随分老成していると志登は感じた。
「本日はご足労をおかけしてすみません。我々にお話しがある、とのことでしたが」
眼鏡をかけている方が口火を切った。おそらく区別をつけるためにかけているものだろう。
「あ、申し遅れました。現在、汪幽教の代表を務めております芥屋(けや)満(みつる)と申します。こちらは弟で副代表の芥屋潮(うしお)です」
眼鏡をかけていない方――潮は無言で軽く頭を下げた。どうやら潮は口下手のようで、しゃべるのはもっぱら満の役目のようだ。満の堂々とした振る舞いに、一瞬圧されたが、すぐに立て直す。
「どうも、〈アンダーライン〉第一部隊長の志登と第三部隊長の松本です。本日はお時間取っていただきありがとうございます。事前にご連絡も差し上げましたが、最近のご活動についてお話をうかがいたいと思いまして」
志登の口上に満は心底不思議そうな顔をして首を傾げた。
「自警団の総部隊長が直接いらして、お聞きになりたいのがそんなことでよろしいですか?」
僕ら毎月活動報告は出してますけど、と言う満に志登はうなずいた。汪幽教の活動報告は調査機関である〈ミドルライン〉に毎月きちんと提出されていた。〈ミドルライン〉の担当者に確認したところ、期日に遅れた月はこれまでにないとのことだった。
「ええ、存じております。ただそれでは説明できないことがありますよね」
志登はそう言って、彼らが提出しているという報告書(データではなくプリントアウトされたものである)を取り出した。ここ、と言いながら、報告書の一部を指さす。
「新しい医療用麻薬を開発されたこと自体は問題ありません。おそらく我々の中にも世話になる者が出てくるでしょうし、ありがたいことです。ですが、廃棄費用が少な過ぎる」
トントン、と志登は毎月の収支報告を指で叩いた。毎月ほぼ同額の費用が計上されているが、大きく前後することはないまま、半年の間推移している。
「出荷される量から考えると、どんなに少なく見積もっても、これの倍は廃棄される薬品があるはずですよね」
次に疑うのは不法投棄だが、今回に限っては事情が違う。
「何かに活用されているならば、ぜひご教示いただきたいと思いまして」
横から松本が付け加えると、満の顔から笑みが消えた。
「すべてご存じのはずなのに、あなたたちもお人が悪いですね。昨日、千早先生からもお聞きになったのではありませんか?」
この時点で、彼らにごまかす気が一切ないのだと志登も松本も気づいた。
「……では、俺たちの推測通り、廃棄薬品がハイエルトXO2錠の後継品に化けていたということですか?」
「ええ、御想像の通り。ごまかせるかと思ったんですが、やはり無理でしたね。それと後継薬のことは、ぜひハイエルトXO3(エックスオースリー)と呼んでください」
にこやかに言う満の横で潮がため息をついた。これまでずっと黙っていた彼だったが、おもむろに口を開いた。
「だから言ったのに。ごまかすのは難しいよって」
「そのあといつまで気づかれないか賭けをしよう、って僕に誘いをかけたのは誰だよ」
満は苦笑しながら言う。
「一応訊きますが、なぜあれを世の中に流通させたんですか」
松本が訊ねると、芥屋兄弟はよく似た顔で松本を見つめ返した。
「それはもちろん、取り戻したかったんですよ。『すべての人に幸福な生涯を』もたらすことができる世の中を。それだけです。僕らの理念が生きた時代を取り戻すためにはハイエルトXO2が必要でしたが、今や製造できないので、似たようなもので代用することにしました。ああ、もちろんあなたも例外ではなく、僕たちの理念の対象です」
満の言葉を志登と松本は黙って聞いた。
「僕らは汪幽教本部に残されていた昔の手記を読みました。その中で、あなたを含めた米澤氏の研究についても評価されていましたが、それには違和感を覚えました」
潮はじっと松本に視線を合わせた。
「世間に米澤氏の研究は諸手を挙げて歓迎されましたが、大戦が終わったら見向きもされなくなったことが気になっていたんです。本当にその研究に関わった人は幸福に(・・・・・・・・・・・・・・・・・)なれたのか(・・・・・)、と」
――あなたは自分の生涯が幸福だと胸を張って言えますか。
そう問いかけられて松本は言葉に詰まった。自分の人生すべてを肯定することはできないが、否定をすることもできなかった。
そして、永遠にも思える時間――実際には数秒だっただろうが――が過ぎた。
「おい、こいつらの勧誘手口にあっさり引っかかってんじゃねえよ」
「イテッ!」
ドツボにはまりかけた松本の脇腹に志登の肘鉄が入った。手加減なしの肘鉄は痛烈に効いた。松本は脇腹を手のひらで撫でさすりながら恨めし気に志登を見る。
「つーわけで悪ぃな。勧誘はよそでやってくれ。そんで俺からも一つ質問だ。なぜ、『すべての人に幸福な生涯を』もたらす世の中を取り戻したかったんだ? ……いや、というよりはこっちがよりふさわしい質問だな。お前らが考える『すべの人に幸福な生涯を』もたらす世の中ってどんなもんだ?」
志登の質問に満は眼鏡の奥の目を細めた。そして「やれやれ」とため息をついて、問いかけへの返答を口にした。
「鋭いご質問ですね。僕らはね、ハイエルトXO3を使うことで『幸福な生涯』を提供したかったんです。誰もの幸福な生涯が一つに決まれば、僕らがこの国の命運を握ることだってできる。〈世界を滅ぼす〉大戦で良いように国家に利用された汪幽教の僕らができる最高の復讐だと思ったんです」
「……」
「そんなわけで、松本さんにも勧誘をかけさせてもらったんですが」
フラれちゃったんで松本さんに誘いをかけるのはやめます、と満は言った。
「でも、それ以外のことは諦めませんよ」
どういう意味だ、と志登が問いかけようとしたところで、志登と松本の端末が同時に音を立てた。音を立てた端末に二人が気を取られた瞬間、芥屋兄弟は音もなくソファから立ち上がった。
「では今日はこのあたりで。僕らも忙しいですから」
「またお会いしましょうね」
慇懃に頭を下げる二人に、志登と松本は歯噛みしつつ、去っていく姿を追うことはできなかった。証拠もないのに捕らえることはできない。
「ああ、もう、誰……え?」
松本は端末に表示された〝六条院〟の文字に思わず動きを止める。今の生活になって以降、六条院本人から連絡があったことは一度もなかった。
「ッ、もしもし⁈」
大慌てで通話を開始するとすぐに六条院の切羽詰まった声が耳に飛び込んできた。
『いますぐ本部に戻れ、いますぐだ……!』
何事ですか、と問いかける間もなく発せられた「戻れ」という声の大きさに思わず、松本は耳元から端末を離した。
『説明している暇はない、とにかくすぐ戻れ。取り返しがつかなくなる……!』
電話の向こうからは、看護師の悲鳴のような懇願がかすかに聞こえてきた。無理を押し通して六条院が連絡をしてきたことは明白だ。彼が何を視て連絡をしてきたかはわからないが、松本は端末の向こうに返事をした。
「わかりました! すぐに本部に戻りますから、これ以上の無理はしないでくださいよ……!」
松本が最後まで言い終わるか終わらないかのうちに通話は切れた。六条院があんなにも大声を出したことは今までに一度もない。それだけ本部に戻ったら重要なことが待ち受けているのだろうと思うと、怖気にも似た震えが止まらなかった。
同じく通話を終えた志登も、青い顔をして松本を振り返った。
「すぐに本部に戻るぞ」
「……何が、」
あったんですか、と松本が訊けないでいると、志登は無表情のまま言った。
「――警邏巡回中の隊員が爆発事故に巻きこまれた。怪我の状況等は一切不明だそうだ」
〇
通話が終わったのち、六条院はボタボタと垂れてくる鼻血を乱暴に手の甲でぬぐった。近くにいた看護師が怖い顔で黙ったまま、ティッシュを差し出す。そのティッシュをありがたく受け取って、鼻を押さえる。なりふり構わず松本に連絡を取ったことで、脳への負荷が大きくなりすぎ、その結果が鼻血という形で返ってきていた。
「……これ以上の無理は、絶対に許可できませんからね」
ぎろり、と看護師に睨まれてしまい、申し訳ない、と六条院は思った。だが、無理を押し通してでも松本に伝えなければならないことだった。
「今日の夕方の面会は許可できませんよ」
まだ怖い顔をしている看護師に釘をさされ、六条院は黙ってうなずいた。おそらく今日の夕方に松本は面会には来ないだろう、と思いながら六条院は身体を横たえた。
(……あれが現実であっていいはずがない)
燃える倉庫街、自動車、逃げ惑う人々。
テロと言っても過言ではない規模の混乱にどう収拾をつけるのか、〈アンダーライン〉としての手腕が問われるだろうことは明白だった。
――どうか誰も欠けることがないように。
譫言のようにつぶやかれたそれは、誰の耳にも入ることなく部屋の中で霧散した。