八月。本来は春木が忙しいだろうこの時期に仕事の依頼などしたくはないと思いながらも江角は何度目かわからない石段踏破に挑んでいた。六月の比ではないほど暑い。じりじりと背中を灼く太陽にはしばらく引っ込んでいてもらいたいものだ。
石段の踊り場には掲示板があり、そこには『施餓鬼《せがき》法要日程』と『棚経《たなぎょう》日程』の張り出しがある。盆に檀家を回る『棚経』はいくら若住職といっても春木がかり出されるであろうし(中高生の時分から手伝いにかり出されており、当時の春木が「俺ばっかり山の上の家に行かされるんだけど」とぼやいていたのも記憶にある)、施餓鬼法要も準備が必要なのは重々承知している。
(気が重てえー……)
このままUターンして帰りたい、という気持ちと戦いながら江角は石段を最上段まで上がる。今から行く、という連絡を県警本部を出る際に入れたものの、勝手口にあるインターホンを押そうと手を伸ばすと後ろから涼やかな声がかかった。
「泰地くん?」
「あ、明理《あかり》さん、おはようございます」
春木には三人の姉がいる。一番上と三番目は県外で暮らしているが、二番目の姉は平桐寺で暮らしているのだと聞いていた。春木と江角より五つは年上だったはずだが、それを感じさせない不思議な見た目をしている。
春木の二番目の姉は昔からどこか浮き世離れした雰囲気を漂わせており、それは三十路を越えたと思しき今でも変わらない。春木は「私は明理姉さんと一番気が合うんだよね~」と朗らかに笑っていたが、江角は彼女が春木の姉たちの中で一番苦手だった。それは彼女が春木家の四人姉弟の中で一番〝見える〟体質であるからというところに由来する。彼女に見つめられると自分でも知ることのない自らの深淵をのぞかれているような気分になる。
そんな江角の気持ちを知ってか知らずか、明理は微笑んで言う。
「りーくんなら裏庭の掃除中だよ。仕事で来たんでしょう?」
「ありがとうございます。明理さんはお出かけですか?」
白いキャミソールに細身のGパンというラフな格好で、おまけに彼女は手ぶらであった。出かけるのであれば多少の荷物は持つだろう。
「うん。ちょっとそこまで。煙草買いにね」
「明理姉さん、ちょっとそこまでじゃないでしょ。ほら、忘れ物」
いつの間にやってきたのか、江角の目の前には大きなボストンバッグを持った春木が立っていた。
「あら」
目を丸くする明理に春木は苦笑しながら言う。
「あらじゃないよ、もう」
「こんなの必要じゃないのに、面倒なんだから」
仕方ないな~と歌うように言って明理は春木からボストンバッグを受け取り、石段の方へと歩いて行った。カツカツと足音が聞こえて、よくよく彼女の足下を見ると一〇㎝はあろうかというピンヒールだった。大きなボストンバッグを持って颯爽と歩く姿に、強烈な違和感を覚えた。
「あれ、何が入ってんだ」
「姉さんの商売道具」
「……一応訊くが、その仕事ってのは」
「ちょっと言えないやつ、かな。明理姉さんに一般社会での生活ができると思う?」
「悪いが思わない」
即答する江角に春木は苦笑した。
「誓って反社会的な仕事じゃないけど、まあ、その民間療法と加持祈祷とカウンセラーを足して三で割ったような仕事だからあんまりおおっぴらにはできなくてさ。でもその筋では結構繁盛してるらしいよ」
「ま、科学や法律じゃ解決しないことはたくさんあるからな……」
病も気から、という言葉に代表されるように気持ちの問題である、と言えることはたくさんある。
「親父さん的にはいいのか」
一応歴史ある寺院とは相対する場所にある職ではないかと思って訊ねたが、春木は朗らかに笑って答えた。
「いいのいいの。むしろ父が頼んでとある団体に入れてもらったらしいから。姉さんもああ言ってるけど、自分からちゃんと出かけてる時点で相当気に入ってるってことだし」
「ふうん」
春木家の中でWinWinということになっているのであればいいか、と江角は春木の言葉をそれ以上気にしないことにした。
「さ、上がって。立ち話するようなことじゃないんでしょ」
「悪いな。忙しい時期に」
「まあね。でも大丈夫。今年は私がいなくてもいいようになったから」
江角の謝罪を嫌みなく受け取り、春木はさらり、と新しい情報を加えた。
「?」
「今遠縁の親戚が修行に来ててね。私がいなくても回るようにしてくれたんだ。だからたいちゃんとの仕事に専念できるよ」
「……オレとしてはありがてえが、お前の本業に支障を出すつもりじゃなかったんだけどな」
ぼそっとつぶやきながら江角は脱いだ靴をそろえた。
「そんなに気にしないで。支障は出てないよ。私自身も楽しんでいるしね」
そう言って春木は檀家からもらったのだというアイスコーヒーを江角に出した。この時期の春木家の冷蔵庫は中元ギフトがぎゅうぎゅうに詰まっている。なお、春木家の姉弟が幼かったころはこのアイスコーヒーがとある乳酸菌飲料だった。
「これ見てくれるか」
江角は印刷しておいた写真を春木に見せる。が、春木はその写真を一瞬見たのち、サッと顔をそむけた。
「なんかとてつもなくいやな気配がしたんだけど」
塩まいていい? と訊ねる春木を「調査が終わってからな」と江角は止めた。
「というかやっぱりお前もいやだって思うんだな」
「画像でこれって一体なにを引き受けてきたの?」
「……話せば長くなるんだが」
「一切端折らず全部言って」
有無を言わせない春木の圧に江角は内心で白旗を上げ、昨日のUPI執務室での会話を順を追って話し始めた。
昨日、夕方。
県警本部のUPIの事務所において江角は国屋と対峙していた。
「なんですかこれは」
極力、国屋の方を見ないようにしながら江角は訊ねた。目を背ける江角に反して、視界の端に映る国屋の顔がパッと明るくなった。彼の顔が明るいときにロクなことが起きたことがない、と江角は絶望的な気持ちになる。
「江角がこれを見ないようにするってことはやっぱり本物か、これ。いやあ、久しぶりに当たりを引いたなあ」
「国屋さん、それだとただの嫌がらせです。ちゃんと江角君に説明してあげないと」
キラキラした目で箱を見る国屋は江角の様子などお構いなしに踊りだしそうな雰囲気である。横からフォローを入れてくれた上乃木に江角は心の底から感謝した。
「とある小学校の先生から相談と通報があって預かったものなんだよね。仮称で朱塗りの匣って呼んでるけど、とりかえばやの匣って知ってる?」
「一応。箱の中に何かいれるとそれと交換で願いを叶えてくれるとかいう眉唾物ですよね」
UPIに異動してから頭にたたき込んだ知識を引っ張り出す。うむ、と国屋は仰々しくうなずいた。
「そう、おおむねそれで正解。ただ、これは珍しく眉唾じゃなくて本物なんだよ」
「……そうなると神祇部の管轄では?」
とりかえばやの匣、というのは箱の先に何らかの神がおわす、というものである。
怪異対策班では扱いが難しいため、発見された場合は神祇部が管理・対処をするという決まりがある。
「神祇部は今の時期は滅多なことがない限り動けないからね」
盂蘭盆が近い時期には神祇部は基本的に外を出歩かない。曰く、死霊という穢れに触れることになるからだという。それを初めて聞いた時には、そういうものか、と納得した江角だったが、今は心の底から納得したことを悔いている。
「だからって直視もできないオレに頼むのは話が違うと思うんですけど? それに本件はその滅多なことに該当しないんですか?」
直視を避けているものの、動悸と息切れに襲われる。手のひらにはじっとりと汗をかいており、江角の手に余るのは明白だった。
「とある小学校の先生から預かったって言ったじゃない?」
その言葉に江角はイヤな予感がした。
「――小学校って知ってる?」
案の定、国屋の口から出た小学校の名前は、江角の母校だった。江角に白羽の矢が立った理由が明かされ、江角はがっくりと肩を落とした。
「そこの三宅先生から預かったものなんだよね。詳しいことは明日話してもらえるように手配しておいたからよろしく」
「……オレたちの手に負えないと思ったらすぐに言いますからね」
「それはもちろん。とりあえず調査だけ頼んだよ」
現物持って行く? と訊ねる国屋の言葉は即刻却下し、江角は春木に見せるための写真をなんとか一枚撮った。写真であってもあまり触れたくないものだったが、仕方ない。
「ん? そういや三宅って」
同級生に小学校教員になった女子生徒がいなかったか、と江角は一瞬考えたが、すぐにその考えは押し流されていってしまった。