翌朝、菊名橋家によって手配された車に揺られて、満碧は帝都の西の郊外にやってきた。菊名橋家の邸宅は、この地に百年近く前から建っている立派な屋敷だった。文明開化の世に合わせて外観は洋風に手直しされているが、重厚な時の流れを背負ってきたことがうかがえる建物だった。
満碧が車から降りると、菊名橋家の使用人と思われる数人が恭しく頭を下げた。名家の使用人だけあり、満碧の奇抜な見た目にも眉ひとつ動かさないことにホッとする。その中の年嵩の男性が穏やかに口を開いた。
「松白様、ようこそいらっしゃいました。わたくしは侍従長の恩加島(おかじま)と申します。こちらは松白様の世話役をつとめます藤世(ふじよ)でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
恩加島と名乗った侍従長が紹介したのは、色白のふくよかな女性だった。名にも入っている淡い藤色の着物がよく似合っている。
「藤世でございます。なんなりとお申し付けくださいましね」
にこり、と藤世が笑うと頬が丸く持ち上がった。布袋尊を女性にしたような彼女に、満碧の心は幾分か落ち着いた。
「さて、さっそく旦那様とお顔合わせ、といきたいところですが、先ほど急な用務でお出かけになられてしまいまして……旦那様がお戻りになりましたら改めて場を整えますので、ひとまずお部屋にどうぞ」
「あの、旦那様のお戻り、というのはいつ頃でしょうか」
やっと口を開けた満碧が問いかけると、恩加島は眉を下げた。
「申し訳ございません。わたくしどもも、旦那様の公務については多くをお知らせいただけないのです」
「そうですか……」
噂のエリートである汀夏との対面が先に延び、心の準備ができるようになって喜ぶべきか、緊張する時間が延びたことを嘆くべきか、と満碧は複雑な気持ちになる。そんな満碧の心境を見透かしてか、藤世が言う。
「そんなお顔をなさらないでくださいな。旦那様は良い方ですからね。ゆっくりおくつろぎになって、お待ちくださいませ」
「はい。ありがとうございます」
藤世に言われると不安がふっと消える。温かく柔らかな物言いをする彼女が身の回りの世話をしてくれるというのであれば、きっと大丈夫だろうと思えた。
案内された部屋は畳敷きの十畳一間が二つ連なっている部屋だった。真ん中の襖を閉めると独立した部屋として使える。
部屋に敷かれた畳からは新しいい草の香りがした。調度品は落ち着いた色合いで整えられており、初めての場所なのに親しみが感じられた。
「こちらでございます。お荷物はお手持ち以外にもございますか?」
「いえ……その、あまり、ものを多く持つ身ではございませんので」
事実だが、それを藤世はいいように受け取ったらしく「神職でおつとめされる方は節制なさるそうですものね」とつぶやいた。着るものにはある程度自由があったが、神事に従事している時間の方が長く、私服をあまり多く持っても仕方がなかった、というのが真相である。
「この家も広うございますから、迷われないよう最初のうちは何か御用がありましたら、わたくしにお申し付けくださいまし。わたくしは隣の部屋におりますので」
藤世はそう言って、にこりと笑うと満碧の荷物を部屋に置いて出て行った。慣れない環境で他人と一緒にいることが満碧の負担になると見ての配慮だろうが、行き届いていると感心した。
藤世が去った部屋はしん、と静かだった。荷解きをする気にもなれず、部屋に用意されていた座布団を枕がわりに寝ころんだ。寝ころぶとふと緊張の糸が切れたのか、猛烈な眠気に襲われる。うとうとしながら満碧はふと昨日の夜のことを思い出す。
昨日は突然の話にうまく寝つけず、落ち着くために水を飲もうとして、厨に向かった。その時に母の部屋の前を通りがかると、部屋の中から話し声が聞こえることに気づいた。
『お母様も意地が悪いわ。菊名橋家のお話を全部お兄様にして差し上げないんだもの』
母を咎める、というよりは楽しんでいるようなトモ子の物言いに満碧はぎゅっと唇をかみしめた。ともすれば叫び出してしまいそうな衝動を抑える。この家での飼殺しを避ける唯一の機会を無駄にしてはいけない、と必死に自分を律しながら、満碧は会話の続きを待った。
母は気だるげにため息をつくと、しゃべり始めた。酒が入っているのか、やや舌足らずなしゃべり方だった。
『しても仕方がないでしょう。菊名橋家の男性は代々続く呪いのせいで、三十過ぎまでしか生きられないなんて話。もう決まった縁談ですからお断りなんてもっての他です』
『それにしてもそんなにお兄様の力を求めるなんて、あちらもよほど切羽詰まっていらっしゃるのね』
トモ子の形ばかりの憐憫の言葉に、母はやはり気だるそうに返した。
『跡継ぎがいないそうですからね。少しでも呪いから遠ざけようと必死になるのも、うなずけますけれど、無駄でしょう』
その後の話は満碧の頭にろくに入ってこなかった。この話が真実であるとするならば、満碧が遠くないうちに菊名橋家から追い出されるのは確定であり、その時彼女たちは満碧の出戻りを許さないのだろう。目の前が真っ暗になり、足元にぽっかりと穴が空いたような感覚を覚える。
(……こんな話、聞くんじゃ、なかった)
その後どうやって部屋まで戻ったのか、満碧はよく覚えていない。そのまま布団の中でずっと小さく丸くなったまま、まんじりともせず朝を迎えた。
その寝不足のつけが今になってきた。
(このまま、寝ては、服が……)
しわになる、と思いながらも満碧は眠気にあらがえず、いつしか両目を閉じていた。