第一話 真珠と燐葉石 - 4/4

 菊名橋家の邸宅は外観と増築された部分は洋風であるが、元は和風の邸宅であり、汀夏の私室も元からある和風建築部分にあるという。板張りの廊下を静かに歩く。満碧と藤世の衣擦れの音以外は何も聞こえない。随分静かな屋敷だ、と満碧は思った。
 廊下を進み、この屋敷の主人である汀夏の私室に近づくにつれ、満碧は自分自身の足取りが重たくなることに気づいた。どういうわけか、汀夏の部屋からは満碧がよく知る〝呪い〟のような気配がする。浄めの儀で、取り祓うものより幾分濃くて昏い感覚に、母が口にしていたことは本当なのかもしれない、と頭によぎる。
「こちらです」
 藤世が足を止めたのは家の一番奥に当たる部屋だった。彼女は膝を折ると、襖越しに中に声をかけた。
「旦那様、満碧様をお連れしましたよ」
「ああ、入れてくれ」
 中からは落ち着いた深い声が返ってきた。もっと氷のように冷たい声色を想像していた満碧は思ったよりも汀夏の声が柔らかいことに意外だ、と思う。
 藤世に襖を開けてもらうと呪いの気配はますます強くなったが、満碧は覚悟を決めて部屋の中に入る。入って数歩の場所で膝を折って座した。汀夏の顔はまだよく見えない。
「松白満碧でございます」
 そう言って満碧は深々と手をついて頭を下げた。お祓いやお清めを行うときと同じように美しく見えるよう、そして指先一つまで震えないようひどく神経を遣った。
 永遠にも思える長い時間がすぎたあと、部屋の主人である菊名橋汀夏の声が響く。
「松白ではないだろう。貴殿はもう菊名橋家の人間なのだから」
「え」
 第一声に満碧は思わず顔を上げた。艶やかな黒髪を短く刈り込んだ男性がじっと満碧を見つめていた。背筋を伸ばして座している姿はまさに眉目秀麗、という言葉がふさわしいだろう。この言葉がこんなにも似合う人間がこの世にいるのだと満碧は感心した。
 汀夏は眉をひそめて言う。
「届けに署名をさせるよう言いつけたはずだが、していないのか」
「あ、その、申し訳ございません」
「貴殿の謝罪は不要だ。恩加島に訊いている」
 汀夏はそう言って、控えていた恩加島に訊ねた。恩加島は「申し訳ございません」と謝罪をした。
「ですが、旦那様。お顔も知らない相手との婚姻でございますよ。お顔合わせもしないうちから満碧様に署名をお求めになるのは、いかがなものかと恩加島は思います」
 満碧は恩加島の言葉に肝をつぶすほど驚いた。顔には出ないように、と懸命に拳を握って耐えるが、侍従が主人に口答えするなど、満碧の常識からは外れていた。
 恩加島が激しく叱責されるのではないか、と危惧して満碧は身をすくめていたが、叱責ではなく穏やかな声が聞こえた。
「……それも、そうだな。恩加島の言う通りだ。目通りもしないうちからすまない」
「い、いえ、滅相もございません」
 満碧は恐縮して頭を再び下げた。汀夏のことを慈悲なく気難しい人だろうと思い込んでいたが、侍従の言うことを素直に聞き入れる姿に、そのような人ではないのかもしれない、と思い始めた。
「満碧」
「は、はい」
「貴殿はこの家の主人である私の伴侶になる者だ。使用人に対しても堂々とするように」
「はい。あの、努力、いたします」
 満碧の言葉に汀夏は少し目元を緩めると「それでいい」と言った。そして、再び表情を引き締めて口を開いた。
「さて、満碧。貴殿をこの家に呼んだ理由は聞いているだろうか」
「噂話程度に、お聞きしていますが、ほとんど存じ上げません」
「恩加島」
 満碧の答えに汀夏は恩加島の名を呼んだ。説明していないのか、という視線も付属しているが、恩加島はどこ吹く風といった体で「旦那様ご自身で説明なさるとおっしゃったではありませんか」と嘯いた。
(……どうやら彼には旦那様も頭が上がらないんだな)
 恩加島の年齢を考えれば、汀夏が幼い頃からこの屋敷に勤めていてもおかしくない。半分親代わりでもあるのだろうなと満碧は思う。
 こほん、と汀夏が小さく咳払いをした。
「この家には私の高祖父の代から相伝の呪いがある。……ここまでは、聞いているか?」
「はい」
 高祖父の代からの相伝であることは知らなかったが、呪いの話は嘘ではないと満碧は理解していた。目の前の汀夏からは絶えず、どうしようもない呪いの気配がしている。
「聞かずとも、貴殿であればお見通しか。高祖父の代が原因なので、私も詳しいことは知らないが、神祇省のお役目で受けた仕事中の事故でもらったものだそうだ。手を尽くしたが、解呪できないまま、私の代まで引き継がれてしまったと聞いている。この家に生まれついた男児は齢三十ほどしか生きられない短命の呪いだ」
 汀夏の言葉には感情らしい感情は乗っていなかった。淡々と仕事の報告のように告げられる事実に満碧は固唾を飲みこんだ。汀夏の言葉は続く。
「私の父は、私が七つのときに三十二で鬼籍に入った。私も齢二十五を迎える身だ。残された時間は長くない……したがって、できることは何でもしようと貴殿を我が家に迎え入れる算段を整えた」
「…………左様でしたか」
 色々考えたが、やっとのことで満碧がしぼり出した言葉はひどく陳腐なものになってしまった。
「ああ、私に残る時間が少しでも長くなるよう呪いの浄化と解呪に務めてほしい。それ以外は貴殿の好きなように過ごすといい」
 そう言って汀夏はにわかに着ていた袷の片肌を脱いだ。あらわになる素肌に思わず目をつむった満碧が、恐る恐る目を開けると、そこに白い肌はなかった。
 どす黒く渦巻くおよそ人の肌とは思えない紋様が肌全体を覆っており、黒くない場所を探す方が難しかった。汀夏を断罪するようにも見える紋様に満碧はとっさに口元を押さえた。
「ッ……!」
「見苦しいものを見せてすまない。我が家の呪いがなんたるものか、見ておいてほしかった」
 汀夏が袷を着直すと、先ほどまで感じていた呪いの気配が少し和らいだ。満碧は詰めていた息を吐き出す。
「旦那様のお召し物は、特殊なものですね?」
「ああ。だが、気休めでしかない。執務において、現場の霊的なものに大きな影響を及ぼさないようにするだけだ。貴殿のような敏感な者はすぐに気づく」
 そんな強大な呪いを浄め、果てには解除することができるだろうか。満碧は自分が背負うことになった難題と、責任の重大さに腹の底が冷えるような心地がした。
「まずは、この家に慣れるところから始めてくれ。必要なものは一通り用意したつもりだが、足りないものがあれば恩加島か藤世に言いつけるように」
 汀夏の言葉に満碧は「ありがとうございます」と言って軽く頭を下げた。足りないものは今の時点でない、と言いかけて、すぐに考え直す。
「では、木札と紙と墨、それから筆を用意いただけますか。……あとはさみもあれば嬉しいのですが」
 刃物は与えられる可能性が低いだろうと思いつつ満碧は口にした。予想通り、汀夏は目を細めて何かを探るように満碧を見た。
「はさみ以外はすぐに用意させよう。はさみで何をするつもりだ?」
「紙を人型に切って、形代を作ります」
 満碧が正直に答えると、汀夏はしばらく何やら考えこんでいたが、わかった、と言った。
「それも用意させよう。ただし、藤世とともに使うように」
「承知いたしました」
「それと、」
 さらに注意事項があるのか、と満碧が思っていると、汀夏はやや重たそうに口を開いた。
「私のことは、旦那様ではなく、名前で呼んでほしい」
「? はい、汀夏様、とお呼びすればよろしいですか?」
 満碧が首を傾げながらそう答えると、汀夏は満足そうにうなずいた。
 家柄や噂話からは随分かけ離れた方だ、と満碧は思った。もっと偉ぶったり、傍若無人にふるまってもおかしくない立場なのに不思議な方だ、というのが、満碧から汀夏に対する現時点の印象だった。