最終話 Good-bye our sweet stray dogs 前編 - 3/4

松本の退職届を六条院が発見してから三日が経過した。六条院の独断で退職届は彼の手元にあるままだ。転属がかかってから一年弱のうちに松本はずいぶんと隊員たちから慕われていたようで、心配の声が六条院のもとに多数寄せられた。それらをすべて体調不良という言葉で押しきり(数か月前の米澤の事件からしばらく松本の顔色が悪かったのは隊の中でも心配されていたようで、隊員たちはひとまずその言葉に納得した)、松本からの連絡を待っていたがまったく連絡は来ないままだった。
そしてその公休日の朝、六条院は隣の部屋から聞こえるかすかな物音に着の身着のまま外に飛び出した。

「松本?」

だが、六条院の呼び掛けに答えたのは松本ではなかった。キャップをかぶり、作業服を身にまとった男性二人組が松本の家から冷蔵庫などを運び出している。そのうちのひとりが六条院に気がついて振り向き、ぎょっとした顔をした。隣人がいきなり飛び出してきたら驚くことは想像に難くない。まして飛び出してきたのは六条院だ。

「お騒がせしてすみません。不用品処分を依頼されて参りました」

だが隣人が苦情を入れるために出てくる、というような事態には慣れているのだろう、我々はこういうものです、と言って業者の男は六条院にリサイクルショップのカードを渡した。確かにそこにはよく耳にするリサイクルショップの企業名が印字されている。業者に松本がいつ依頼をしたかが判明すれば行方をくらますことをいつから考えていたのか、わかるかもしれない。そう考えて六条院は業者の男を引き留めるために質問をした。

「……つかぬことをうかがいますが、依頼があったのはいつですか」
「え、ちょっとそれは個人情報なので、お伝えできません」

戸惑う男に六条院は部屋に戻って自分の名刺を手渡した。その上で自分は〈アンダーライン〉所属の人間であり、隣に住んでいた部下が数日前から行方をくらませているのだと明かせば、業者の男はようやく六条院に情報を教えてくれた。

「依頼があったのは三日前ですよ。家にあるものはすべて不要だから処分してくれって連絡があって、買取金はすべてホシノって人の口座に入れてくれと言われました。どんな金額でもホシノさんは納得しているからって。お部屋の鍵もマンションの管理人さんに話して借りられるようにしておくって言われて」

もしかして、処分したらまずかったですか? と恐る恐る訪ねる業者の男に六条院は首を横に振った。

「いえ、処分自体はおそらく本人の意思なので、構いません。ありがとうございます」

作業のお邪魔をしてすみませんでした、と謝罪をした上で六条院は自室に戻った。

「ホシノ」

業者の男が口にした言葉を思わず反芻する。十中八九ホシノという名は幹夫のことを示していると考えていい。松本の口ぶりからすると星野以外に身寄りはなかったはずだから、不用品の処分に伴って発生する金のことを任せるとしたら星野だ。どうやら本格的に松本は六条院の前から姿を消してしまったようだ、と事態の深刻さに直面していると、六条院の仕事用の端末が着信を告げた。

「はい」
『六条院隊長、今、ご自宅ですか?』

切迫感のある声に思わずどうした、と呼び掛ける。電話の相手は元岡だった。

『至急お伝えしたいことがあります。今すぐ〈アンダーライン〉本部に来てください』
「……わかった」
『他の隊の副隊長以上にも至急呼び出しをかけていますので、なるべく早く来てください』

きっと良くない知らせが待っているのだろう、と思いながら六条院はノロノロと部屋着から出勤時のワードローブに手を伸ばした。

 

 

招集をかけられた場所は先日と同じ地下だった。基本的には副隊長以上しか入れない場所だが、本日は元岡もいた。稲堂丸がゲスト登録をしたようだ。

「休日にお呼び立てしてすみません」

元岡は頭を下げた。普段〈アンダーライン〉に来るときは外出用の汚れていない白衣を身にまとってくるが、今日は慌てて来たのだろう。普段使っている白衣――汚れがあちらこちらに付着している――をそのまま着用していた。
そして顔を上げた元岡の目尻はわずかに赤くなっていた。

「……ある情報筋から個人的にもらった情報です。誰から提供されたかは、言えません。本当は、私で止めておこうと思ったんですけど、そうも言っていられなくなったので、うかがいました」

元岡はそう言って、一枚の写真を円卓の中央に置いた。

「十数年前に撮影されたものが偶然見つかったようです。〈世界を滅ぼす〉大戦において一体残っていると言われていた人体強化の成功例、検体番号・三十二です」
「……」

写真を見た全員が絶句した。薄々気がついていたが、核心を突きたくなくて目をそらしていた現実がそこにあった。

「――似てますよね、松本副隊長に」

彼女はきっとこの場に来るまでに何度も写真を見て、覚悟を決めたのだろう。震えもせず、真っ直ぐに響く声に、六条院は小さくため息をついた。彼の五感の鋭さも、身体能力の高さもすべて〈成功例〉だからだと言われれば納得できる。おそらくほかにも五感が鋭い人間はいるだろうが、彼に及ぶ者がいるかと訊ねられたら答えられない。

「……そうだな」

六条院が認めたことで、その場の雰囲気が少し緩み、またすぐに引き締まった。

「で、だ。ここ数日松本の姿が見えないのはどういうことだ。本当に、体調不良なのか」

稲堂丸の問いかけに、六条院は首を横に振った。潮時かもしれない、と思って自分の机から取ってきた松本の退職届を円卓の上に置いた。

「松本が姿を消した三日前、これがわたしの机に置かれていた。だが、わたしの独断で保留にしていたものだ。……もう、保留も必要なさそうだが」

六条院は自宅での出来事をかいつまんで説明した。その出来事を聞き終わると、第二部隊の末永が口を開いた。

「あまり想定をしたくはないことですが……後ろ暗いことがあって、脱隊したという可能性は?」
「……松本が、今回の案件について手を引いていたと言いたいのか?」

六条院が質問に質問で返すと、末永は首を横に振った。

「僕だって、そんなこと考えたくないですよ。松本くんの仕事はいつも丁寧でしたから。そんな人が、今回の事について手引きしたとはどうにも考えにくいです。ただ、〝最悪の想定〟はしておくべきでしょう」

末永の言葉に六条院は黙った。考えたくはないが、想定するべきか。そんな六条院に助け舟を出したのは、元岡だった。

「末永隊長の想定も当然必要ですが、今回は違うと考えられます。おそらく松本副隊長は最初から今回の事件が残る同胞によるものだと気がついていたのでしょう。きっとそれを、止めに行った。そして隊に迷惑がかからないように、辞表を出していったのではありませんか?」
「止めに?」

第四部隊長の八島が不思議そうな声を発する。ここ数日、全力で捜索が行われていたのに、見つかっていない人間をどうやって見つけるのか、と言いたげな彼に、六条院は告げる。

「……そこで活きるのが、松本の身体能力だろう」
「そういうことか」

納得したらしい八島は続けてくれ、と元岡に目配せした。

「もし、辞表を出してここを去ったのがその理由によるものだとすれば、私たちにはもう松本副隊長を見つける手立てが残されていないと思います。きっと、私たちの何倍も、身の隠し方、追手からの逃げ方は上手でしょうから」

そう言って元岡は悔しそうに唇を噛んだ。その時ふと、六条院の脳裏によぎる人があった。

「……星野教官」
「え?」
「松本は、養成機関の元教官に身元を保証されていた。きっと、教官は松本のことを知っていたはずだ。教官も、当時若かったとはいえ〈世界を滅ぼす〉大戦を経験している。――だから、松本のような検体がいたことは知っていた」
「あ、」

六条院の言葉にかぶせるように、志登が声を上げる。どうした、と稲堂丸が水を向けると、志登は以前松本とともに訪れた〈ゼータ〉の居酒屋を思い出した、と言った。

「あの時、店主の多久さんは松本を見て『あいつ、星野の秘蔵っ子か?』って言ってたんですよ。多分、その当時の上層部の人たち全員が松本のことを知っていて、〈アンダーライン〉に入れたんじゃないですか? ……実益と監視を兼ねて」

志登は最後の言葉を苦々しい顔をしながら言った。松本が純粋に星野のことを話しているのを聞いたのは志登しかいない。

「……それは、推測の域を出ないな」

六条院はなんとかそれだけ言って、稲堂丸に向き直る。星野のところへ向かう許可をもらえないか、と訊ねると稲堂丸は条件付きで許可を出した。

「重要な証人だからな。家を訪ねて話を聞いた後は、保護を兼ねて【中枢】地区に連れて来てくれ。志登、お前も一緒に行け。ここ最近で星野邸を訪れていて、場所を正確に知っているのはお前だ」

事前に訪問の連絡はしろよ、と言って稲堂丸は下手くそなウインクをした。それがウインクだと六条院が気がつくには少し時間を要したが、その横で志登はきっちりと敬礼をしていた。
よし、と言って稲堂丸はその場に会していたほかの隊長、副隊長に告げる。

「休日にも関わらず、招集に応じてくれて助かった。六条院、志登以外は今日は帰宅して、休みを温存しておいてくれ。……もしかすると、すぐに招集をかけるかもしれないが」

稲堂丸の言葉に全員が是と答えた。
その場は解散し、六条院は志登に右手を差し出す。志登はその手を不思議そうに眺めたのち――握手を求められたのだと気がついて慌てて自分の手を差し出した。

「よろしく頼む」
「はい、こちらこそ。よろしくお願いします」

志登から見た六条院は無口で物静かだが、仕事ができる人間だった。稲堂丸とは別の意味で緊張する、松本、よくこんな人と一緒に仕事をしていたな、と思いながら志登が握った六条院の手は、汗ばんでしっとりと冷えていた。