最終話 Good-bye our sweet stray dogs 前編 - 4/4

この道を走るのは二度目だ、と思いながら志登は助手席に六条院を乗せた自動車を運転する。田んぼの合間にある未舗装の道を自動車はガタガタと揺れながら走っていく。前回は前回でかなり切迫した状況であったが、今回ほどではなかった。前回、松本を助手席に乗せて、軽口をたたき合ったのがずいぶんと昔のことのように感じられた。

「志登」
「っ、は、はい!」

突然声をかけられて志登は声を裏返してしまう。その様子を見た六条院は苦笑した。この人笑うことがあるのか、と少し意外な気持ちで六条院を見るが、松本が彼の下でのびのび働いていたところを鑑みるに本質は柔軟な人なのだ、と改めて思わされた。

「……以前、松本は星野教官について何か言っていたか」
「はい。拾ってもらったって言っていました」
「それだけか?」
「あと、」

志登はそこで一度言葉を切った。あの言葉はきっと松本の本心で、その言葉を勝手に伝えてもいいものか、という考えが一瞬よぎる。だが、これから星野に会う上で六条院には知っていてほしいと思った。

「幹夫さんは俺を人間にしてくれた人で、俺はほかに帰る家もないからずっとここが俺の家だ、と」
「……そうか」

六条院は深いため息をついた。松本が時折星野と連絡を取っていることは知っていた。第三部隊に異動してきてからは長期の休みに限らず、時間があるときにこまめに帰っていたことも。
星野夫妻に子どもはいなかったため、松本を実の子のように可愛がったのだろうということは容易に想像ができた。そして、松本が星野夫妻に懐いていたのだろうことも。

「いずれにしても気が重い仕事だな」
「……六条院隊長でも気が重いと感じられるんですね」

志登が思わずつぶやくと、六条院は苦笑した。

「世の中には、わたしが経験したことのないものがまだたくさんある。初めての事態には誰しも緊張するだろう?」

そのセリフを聞いた志登は唐突に「そういえばこの人は自分よりも年下だった」と思い出した。普段があまりに堂々としているのでつい忘れてしまうが。
結局、気の利いた返しも言えず、志登は黙って運転を続けた。遠くにぽつん、と見えてくる家を目指す。なにもない田舎道は、目的地が見えていても中々近づいていると感じられなかった。

「あの家だな」
「……ええ、そうです」

よくご存じですね、と言う志登の言葉には応えず、六条院は黙って窓の外を見つめていた。

 

 

自動車を家の前の空いた場所に止め、家の敷地をまたぐと、すぐそこに星野がいた。畑から帰ってきたところらしく、手には土のついた野菜が入ったカゴがあり、本人の頬にも土がついていた。星野は、六条院を見ると顔をわずかにほころばせ、すぐに引き締めた。

「……久しぶり。よう来たなあ」

上がるか、と星野は家の中を指さす。少し迷ったが、込み入った話になるため上がらせてもらうことにした。志登も軽く頭を下げて家に入る。
六条院が最後に星野家を訪れたのは養成機関を出る直前のころだったため、十年以上前になる。その時から雰囲気を変えない家に、仕事中とはいえ、ホッと息をついた。

「ちょっと待っとれよ」

星野はそう言って、ヤカンに入っていた常温の麦茶をコップに入れて二人の前に置いた。礼を言ってありがたく手をつける。星野も自分のマグカップに茶を淹れて戻ってきた。

「山次になんがあったと?」
「単刀直入ですね」
「誤魔化してもしょうがなかろ。山次やのうてお前たちが来るってことは、あの子に何かあった」

星野は冷静だった。だが、訊かれない限りは話をしないという強い意思も感じさせるもの言いに、六条院ははっきりと経緯と訊きたいことを口にすると決めた。

「では、こちらも単刀直入に言います。最近、四件の殺人事件が起きました。互いに関与が見られる手口から、おそらく連続殺人だと見立てています」
「六条院隊長!」

OBとはいえ、部外者に話をするのはどうなのか、と言わんばかりの勢いで志登が声を上げた。六条院は片手で志登をなだめると、そのまま話を続けた。

「その事件の犯人は複数です。犯人について、〈世界を滅ぼす〉大戦で秘密裏に行われた人体強化実験の検体たちだろうと推測した次の日に、松本がこれを出していなくなりました」

六条院は松本の退職届を星野の前に出す。中を開いてもいいか、と訊ねる星野に六条院はどうぞ、と許可する。
松本の退職届の中身は簡潔だった。

――一身上の都合により退職いたします。

句点も含めてたった十七文字のそれを、星野は愛しげに指で何度もなぞった。その様子をじっと見ていた六条院は、ゆっくりと星野に訊ねた。

「松本がどこに行ったか、ご存知ですか」
「……俺には、わからん。あの子からはなんも聞いとらんよ」

その答えは想定内だった。松本が恩義を感じている星野を巻き込むような真似はしないだろう、せいぜい口座凍結の前に金を渡すくらいだろうと思っていたのが正解だったようだ。
六条院は星野の答えにわかりました、と答えて次の質問に移った。こちらが本命だ。

「星野教官、一つ教えてください」

昔呼んでいた名前が口をついて出た。星野は苦笑する。

「まさか十年以上経ってまたそげん呼ばれ方するとは思わんやったよ」

六条院はその言葉には何も答えず、話を続ける。

「……あなたは、松本が【何か】を知っていましたね? どうして松本があなたに拾われたのか、なにを思って〈アンダーライン〉に入ることになったのか、そして今何を考えて動いているのか。わたしたちは知りたい。ただ、これを知るには、あなたの協力が必要なんです」
「俺からも、お願いします。あれだけ一生懸命働いていた人間が、こんなに簡単にやめる道を選んだことがどうしても信じられないんです」

横から志登も口添えをして頭を下げた。
星野は若い二人の勢いに深くため息をつき、顔を上げてくれと言った。難しい顔をしたまま、星野は迷いを含んだ声色で話し始めた。

「……〈世界を滅ぼす〉大戦において、人体強化実験が行われとったのは、戦場に出たことがあるもんならみんな知っとった。いわゆる公然の秘密と化しとったけど、実際に強化された人間を見たことがあるもんは誰もおらんかった。もちろん俺もや」

星野はそこで言葉を区切って茶を飲んだ。

「やけ、あのとき山次を拾ったのは本当に偶然やった。【住】地区六番街〈ゼータ〉の隅っこで雑巾みたいにボロボロになっとったよ。拾ったあとで例の人体強化実験の生き残りだと知った。山次は検体番号しか知らんち言いよったんで、俺が名前を付けてやったと」

その言葉で志登は松本が「星野とどこで出会ったのかは覚えてないが、とにかくうるさくてまぶしくて不快なところだった」と言っていたことを思い出した。五感が鋭い彼にとって、〈ゼータ〉は不快の極みのような場所だ。

「なぜ、松本はそんなところにいたんですか」
「他に行く当てもなかったんやろう。あそこは酒と色にまみれた街で、松本みたいなのに意識を向けるもんもおらん。あの身体で潜むにはちょうどいい場所やったと俺は思っとる」
「……そのあとは」

六条院が話の続きをするように仕向けると、星野は再び重たげに口を開いた。

「そんで、ユリと一緒に世話をした。人間の生活をさせるのにずいぶん苦労したけど、あいつはちゃんと人間の生活ができるようになった。そして、何かしたいことがあるかと訊ねたら、なんて言ったと思う?」

星野はそこまで言って声を詰まらせた。すまん、と言って置いてあったティッシュで鼻をかむ。

「『みんなと同じように年を取って死にたい。俺はそれができたら、他はなんでもいい』。そう言った」
「……」

一般の人間にとってはあまりに平凡で、松本にとっては非凡な願いに、思わず閉口する。星野はそんな二人には構わず話を続けた。

「俺は、それを叶えてやりたいと思った。〈世界を滅ぼす〉大戦の軍部を前身とするのが〈アンダーライン〉やったから、そこに入れば山次も己を変えた研究に近づけて、元の身体を取り戻せるかもしれないと思って、手助けをした。可能性は低くとも、できることはしてやりたかった」

そして、星野の考えに賛同したほかのOBたちが手を貸し、根回しをし、松本が人間として生きていくことができるようになった。
これが、事実だと星野は語った。
六条院は静かに話を聞き終えて、最後にもう一つだけ答えてほしいと乞うた。

「他の、……いわゆる〈欠陥品〉の存在を松本が知っていたと思いますか」
「いや。あの子は知らんかったやろう。強化前の自分のことも、〈世界を滅ぼす〉大戦でのことも記憶が曖昧やった。ほかに残っている者がいる可能性くらいは考えていたかもしれんが、俺の知る限り交流はなかった」

自分の元にいたときの松本の荒廃ぶりはすさまじいものだった、と星野は言う。そんな状態で外と交流を持つことは難しかっただろうとも。今の快活な松本しか知らない二人にとって、にわかには信じがたい話だった。

「ありがとうございます」

六条院は星野に頭を下げた。

「俺からも一つ訊かせてほしい」
「なんでしょうか」
「山次は、部下としてどうやった?」

星野の問いかけに、六条院は迷いなく口を開く。

「他人に心を砕き、弱いもののために行動できます。副隊長となってからはわたしの補佐を含め、他の部下の動向も細かく気にかけられる素質があります。彼を慕う隊員は多く、大変優秀です」

六条院の言葉はすべて現在形だった。まだ、退職届が手元にある以上、松本は六条院の部下だ。あのとき人間の形だけをかろうじて保っていた松本がここまで評価をされるようになったかと思い、星野は再びティッシュで鼻をかんだ。

「……教官、涙もろくなられましたね」
「年を取ればお前もわかる」

赤い目と鼻で星野は笑った。そんな星野の前に、志登がボイスレコーダーを置いて頭を下げた。

「無断で申し訳ございませんが、途中から録らせてもらいました。あなたの話が松本を救う証拠になりますので」
「ああ」
「それと、ここまでの機密をご存知のあなたをここにおひとりで置いておくわけにはいきません。事前のお電話でもお願いしましたが、しばらく【中枢】地区で保護させていただきます」
「ああ、構わんよ」

用意はできとる、と言って星野は立ち上がった。保護という名目で〈アンダーライン〉の監視下に置くことが目的なのはわかっていたが、星野を無碍に扱う人間はいないため、ある程度の楽観が許された。

「……すまないが、最後に一つ」

コップ類の片づけを終え、出発直前に星野は本棚のアルバムから一枚の写真を引き抜いた。およそ十年前、松本が星野家にやってきたときに三人で撮ったものだ。
今と見た目の年齢は変わらないが、雰囲気はずいぶんと異なる松本がにらむようにこちらを見ている。写真に撮られるのを好まなかった松本を説得して、なんとか撮れた一枚だった。

「これはお前が持っとってくれ」
「……わたしで、いいんですか?」

俺がこのときから松本をきちんと保護していた証拠になるだろう、と言って星野は写真の右下に印字された日付を指さす。そして、それ以降一度も家の中を振り返ることなく、彼は住み慣れた家をあとにした。