五、
――その日は春の手前の肌寒い日だった。
「〝ノライヌ〟と名乗る集団を知っているか」
「……?」
隊舎にて、出勤してきたばかりの松本へ六条院から唐突な質問が投げかけられた。松本はロッカールームから持ってきた腕章を装着しながら首を傾げる。
「いえ、特に思い当たる情報はありませんが」
不思議そうな顔をする松本に、六条院は黙って端末を差し出した。
「まだ、公に発表はしていないが、すべての隊の隊長と副隊長には共有されている。最近【住】地区二十一番街および二十二番街で起きている事件だ」
松本がのぞきこんだ端末には、数人の遺体の写真があった。どの遺体も喉笛を噛みちぎられたことによる出血性ショック死――いわゆる失血死だと記載されている。
当初は治安の悪い地区のため、喧嘩の延長でうっかり死ぬところまでいってしまったのだと推測されていたが、立て続けに四件も起きて悠長なことを言っていられなくなった。四件目の現場に落ちていた紙に『我々は、地獄から戻ったノライヌだ』と記されていたことから『ノライヌ事件』と通称がついた。
「でも、こんなに大胆に歯形がついているなら、当然唾液もついていますよね? DNA鑑定は行われたんですか?」
至極まっとうな疑問を投げかけた松本に六条院は「もちろん行われた」と首を縦に振った。
「ひとまず簡易鑑定がなされたが、どれもヒトのものではないという結果が出たらしい」
「……ヒトのものではない?」
突然飛び出してきた不穏な単語に松本は眉を顰めた。
「ただ、ついていた歯形はヒトのものだと示された。四件とも異なるヒトの歯形だ」
「どういうことですか。全然俺には話が見えてこないんですけど」
松本が少し声を鋭くして問いかけると、六条院はぐっと声をひそめて言った。
「例の人体実験、成功例以外にも、生き残りがいると私は考えている」
「――疑っているんですか?」
生死も不明なうえ、〈世界を滅ぼす〉大戦が終わってからもう五十年も経っているのに、と言った松本に六条院は冷静に告げる。
「あくまで可能性だ。人体強化の一番手っ取り早い方法は細胞の情報を変えることだと元岡は言っていた。例えば悪性腫瘍、いわゆるガンは遺伝子が傷ついた細胞が増殖して塊をつくることで広がる病気だが、その逆を強制的に引き起こしたのだと。そうすれば、常人とは違う遺伝子を持った細胞で人体が構成されたヒトが存在することになるだろう?」
そのヒトの唾液はどうなると思う? と訊ねる六条院に松本はため息をつくしかなかった。簡易鑑定においてヒトのものではない、という結論が出るだろうと容易に想像がついた。
「そんなことが、戦前の技術で可能だったんですか」
「それゆえ、秘匿されて禁忌になっている」
志々雄様に連絡を取れば少しは情報が入るだろうが、と六条院は言ったが、おそらく連絡を取ることによるデメリットの方がはるかに大きいだろう。八条院の身に危険が及ぶことを六条院は良しとしない。それは、松本もわかっていた。
「……隊長、その考えを俺以外の誰かに言ったんですか?」
「稲堂丸隊長の耳には少しだけ入れた。いたずらに吹聴する話ではないが、誰にも言わないでいても今後動けない。一番経験が長い彼ならば、比較的公平な采配をしてくれるだろう」
「そうですか」
稲堂丸は自分の目で見たものを一番に信じるタイプの人間だが、他人の意見はひとまず『聴く』。頭ごなしに自分と異なる意見の否定をしないところが、六条院の信頼を買っている。
これ以上事件が起きるのを待っているのもどうなんでしょうね、と松本たちが話をしていると隊舎の扉から稲堂丸が顔をのぞかせた。傍らには志登も控えている。二人とも難しい顔をしているので、なにやら重要度の高い話を持ってきたのだろう、と松本たちも身構える。
「二人ともいるな? 今から緊急会議だ。地下に来てくれ。俺たちは先に行って準備をする」
「承知しました」
すぐに来いよ、と念を押して二人は足早に立ち去って行った。呆気にとられた松本は二人の後姿を見ていたがはた、と気がつく。
「隊長、あの、この建物に地下があるんですか?」
アンダーラインの隊舎の廊下はコの字の形をしている。通常松本たちがいるのはコの縦棒に位置する部分だが、階段では一階までしか下りられない。松本の問いかけに六条院はああ、と声を上げた。
「そういえばそなたは初めてか。機密情報が高い会議を行う際に使用する部屋で、エレベーターのみで行ける地下にある。静脈、顔、虹彩認証が必要になるので、登録された者しか入れない。通常は副隊長以上が使うので、そなたの情報も登録されているはずだ」
「いつの間に……」
どこでそんなデータを取られたかと考えてみるが、異動の際に健康診断を受けたことを思い出した。あの時に一緒にデータ採取されたのか、と納得して松本は部屋のカギを持った。
「戸締りしていきますので、お先にどうぞ」
いつもの癖で六条院を先に行かせようとするが、今日は六条院から待ったがかかった。
「わたしは、会議室の場所も知らぬ副官をひとりで行かせる人間だと思われているのか?」
「……すみません」
「冗談だ。そなたも本当にここの生活に馴染んだな」
率先して戸締りをしようとする松本に、六条院は朗らかな笑みを浮かべた。そんな彼に松本は力いっぱい言う。
「隊長の冗談、わかりにくいんですよ!」